新田義貞公

新田義貞公について②

新田義貞は、鎌倉末期から南北朝時代に活躍した武将の一人で、足利氏と並び武家を統率する力のある家系であった新田家の当主。
鎌倉時代後期の新田家は足利家に対して従属関係にあり、延元の乱以前の義貞は尊氏の指揮下の一部将であったとする研究もある。
また、軍記物語『太平記』においては、主人公の一人とも言える存在である。鎌倉幕府を攻撃して滅亡に追い込み、後醍醐天皇による建武新政樹立の立役者の一人となった。
しかし、建武新政樹立後、同じく倒幕の貢献者の一人である足利尊氏と対立し、尊氏が建武政権に反旗を翻すと、後醍醐天皇により事実上の官軍総大将に任命されてこれに対抗した。
これにより各地で転戦したものの、箱根や湊川での合戦で敗北し、のちに後醍醐天皇の息子の恒良親王、尊良親王を奉じて北陸に赴き、越前国を拠点として活動するが、最期は越前藤島で戦死した。

新田義貞公と元弘の碑

新田義貞公について①

元弘3年(1333)上州(群馬県)生品神社において鎌倉幕府を討幕するため兵を挙げた新田義貞は、鎌倉街道に沿って進み、小手指ヶ原で最初の合戦をし、久米川の合戦、分倍河原の合戦、相州村岡の合戦、稲村ヶ崎の合戦を経て鎌倉の北条氏を滅亡させた。
徳蔵寺板碑保存館に安置されている「元弘の碑」には「太平記」の記述を裏付けるように、合戦の場所と新田の将士、斎藤氏3人の討死者名が刻まれていて、戦史を実証している板碑である。

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