縁起

  • 縁起
  • 「本堂」武蔵野7番
    狭山11番 霊場
  • ◆ 宗派 臨済宗 大徳寺派
  • ◆ 本尊 白衣観世音菩薩
  • ◆ 開山 璧英宗趙和尚大禅師
  • ◆ 本山 京都 龍寶山 大徳寺

臨済宗大徳寺派に属し福寿山徳蔵寺と称す

徳蔵寺の創立は永禄3年(1560)、開山年は元和年中(1615~1623)と伝えられている。

徳蔵寺は当時赤坂種徳寺末であったが、徳蔵寺に住した全叟由禅師は寺の復興に尽力し、 璧英禅師を奉請し中興開山となって頂き、全叟由禅師「自ら」は徳蔵寺中興2代(世)となった。

寛永12年(1635)璧英禅師は招請され徳蔵寺の中興開山となったが、その 年の秋に遷化された。

江戸時代中期、永春庵は八国山から徳蔵寺境内に移され、その後「元弘の碑」も移された。

現在、国の重要文化財に指定されている。昭和43年に徳蔵寺板碑保存館が建設され、 本堂・客殿・庫裏・永春庵は昭和57年に改築落慶し、平成22年にはこれまで無かった山門も新築した。

徳蔵寺の本尊について

「徳蔵寺の御本尊 観世音菩薩は、遠い昔、藤原氏盛貞公が守り本尊として当寺に安置し奉り、 開基として回向したものである」ということが当寺の過去帳に書かれている。

☆新田義貞公が鎌倉の北条氏を攻めたのは…元弘3年(1333)であるが、当時の鎌倉街道は人々 の往来が多く、久米川宿や西宿(諏訪町)とその周辺には多くの人々が住み、また街道に沿って 村落も点在したと考えられる。

従って、徳蔵寺前の道も、八国山に通じる鎌倉街道の脇道として利用されていたと考 えられるので、此の地に徳蔵寺の前身となるお堂が存在していても不思議なことではない。

・新田義貞公は、久米川〈古戦場〉で鎌倉の北条軍と戦い勝利したが、その時点で、 今後の戦勝を祈念し、藤原氏盛貞公が、此の地のお堂に白衣観世音菩薩を安置し、今後の戦勝を祈願 したことは、考えられないことではない。

・この「守り本尊を安置し奉り」という言葉を過去帳に書き入れる時、当時そのよう な「言い伝え」や「古文書」が存在したのかは定かではないが、何らかの根拠があったからこそ、過 去帳に書き入れたのではないだろうか。

本尊 白衣観世音菩薩について

三十三体観音の一にして、比丘、比丘尼身を現じ、頭上より白き軽羅(軽いうすぎ ぬ)を被い肌も美しき女性身となり、岩上に座し、後方には紫竹林があり、側に瑠璃の瓶に柳の枝を挿 し、岩下水中には竜王の跳躍するを眺め給う御姿こそ白衣観音の御影であります 「徳蔵寺 第十八 世 太僊和尚著書」より

永春庵

  • 永春庵
  • 狭山12番 霊場

永春庵は徳蔵寺第三世智明宗察禅師・寛永15年(1638)示寂の開祖で、徳蔵寺第五世方充和尚大禅師・天和2年(1682)示寂が中興し、本尊は聖観世音菩薩。

当初は、八国山将軍塚の南、丘の中腹にあり、天明4年(1784)野口村絵図写(徳蔵寺板碑保存館蔵)に徳蔵寺持と記され、その境内に三士戦死之古墳と記入されている。

古墳とあるは、古碑と思われるので、元弘の碑の存在に関する最古の記録である。

永代供養宝塔「寿海」

永代供養宝塔「寿海」

跡継ぎがなく、墓地を持てない方の為に、山門・境内の整備等とともに建てられた、宗旨を問わず入ることができる永代供養宝塔です。

骨壷にて安置、又は合葬

・永代にわたって供養(春秋お彼岸、お施餓鬼会の合同供養)

詳しくは、お問い合わせ下さい。

正位寺

正位寺跡地蔵尊<写真右側>

正位寺は、寛永17年(1640)昌永寺として、梅岩寺の末寺としてとして建立された。昌永寺は138年後の安永7年(1778)正永寺として、徳蔵寺に譲り渡されていて、正位寺と改められた。

本尊の薬師如来は徳蔵寺本堂内に安置し、正位寺は解体となったが、平成29年(2017)徳蔵寺境内東側に民家を改装し、正位寺を再建、本尊薬師如来を安置した。

正位寺跡地蔵尊・六地蔵尊

正位寺跡地蔵尊・六地蔵尊

正位寺跡地蔵尊<写真右側>

江戸末期~明治頃、正位寺とともに移転された、五輪塔や宝篋印塔・地蔵菩薩は徳蔵寺の境内に、

跡地には現在、正位寺稲荷(正一位稲荷)が祭られている。

六地蔵尊<写真左側>

江戸時代末期に徳蔵寺の檀信徒により寄進されたもの

寺院案内

寺院名 徳蔵寺
宗派 臨済宗 大徳寺派
本尊 白衣観世音菩薩
住職 朝木宗佑
所在地 東京都東村山市諏訪町1-26-3
TEL 042-391-1603
FAX 042-392-9238

アクセスマップ

徒歩

西武新宿線・東村山駅西口から徒歩15分。

自動車

東村山駅方面より、久米川辻交差点を左折、300メートル。
門横に駐車場あり。

グリーンバス(諏訪循環)

東村山駅西口から4分、徳蔵寺停留所下車

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